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2022年 08月 18日
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※面倒な方は記事の後半に簡単なまとめを作っているのでそちらへどうぞ。 まずは読んだ瞬間に眉唾だと直感してしまう記事から。 長いですが記録として残す意味も込めてまとめて引用します。 【特攻隊の『覚醒剤チョコ』最後の食事だったのか...記録には残されず「食べた瞬間にカーッときました」食料工場の女性や軍医の証言】 戦時中に決死の任務を与えられた部隊・特攻隊(特別攻撃隊)。この特攻で陸・海軍あわせて約6000人が亡くなりました。その特攻隊員が出撃前に最後の食事として口にしていた可能性があるというのが“覚醒剤入りのチョコレート”。記録に残されなかった『覚醒剤チョコ』を取材しました。 「菊の紋章」が入っていたという“覚醒剤チョコ” アメリカ軍の艦隊に次々と突撃していく若き日本軍兵士たち。特攻という無謀な作戦により6371人の尊い命が奪われました(日本側の戦死者:(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会による)。実はこの特攻には知られざる悲劇が隠れていたのです。 梅田和子さん(91)。終戦の年の1945年2月ごろ、疎開先近くの茨木高等女学校に転校しました。学校は兵隊の食料工場になっていて、梅田さんはチョコレートを紙に包む作業を命じられたといいます。そのチョコを上級生から命令されて食べた日が忘れられません。 (梅田和子さん) 「(チョコを)食べた瞬間にカーッときましたね。ちょっとおかしい、普通のチョコレートじゃないなとわかりました。チョコレート(を食べたら)クラっとしたと(父に)言ったら、父は『ヒロポン(覚醒剤)でも入っているんだろうな』と」 チョコレートにヒロポン(覚醒剤)が入っていたというのです。 (梅田和子さん) 「(先生からは)『軍隊へ兵隊さんに贈るんだ』と言われましたね。上級生は『特攻隊員が死ぬ前に食べていくんだよ』と言われましたね。だから大事なチョコレートだって」 特攻隊員の最後の食事だったという覚醒剤チョコ。どんなものだったのでしょうか。梅田さんに絵を描いていただきました。 (梅田和子さん) 「これがチョコレートです。菊の御紋が押してあるんですよ。『天皇からの贈り物』だと」 チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、天皇の象徴である菊の紋章が入っていたといいます。ただ、この学校で覚醒剤チョコが作られていたという記録は残っていませんでした。 当時は“栄養剤”のように扱われていた覚醒剤 戦時中に覚醒剤チョコは使われていたのか。手掛かりを求めて取材班は東京に向かいました。話を聞いたのは覚醒剤の歴史に詳しい北多摩薬剤師会の平井有会長です。平井会長によると当時、覚醒剤は今では考えられないような使われ方をしていたといいます。 (北多摩薬剤師会 平井有会長) 「ヒロポンということで、これで500錠が入っていた。極端に疲れた場合とか夜間の作業とかいろいろ書かれている。(Q栄養剤のようなもの?)栄養剤、強壮ドリンクみたいな感じにとられてもしょうがなかった」 覚醒剤は危険薬物という認識は無く、市販もされて広く一般で使われていたといいます。実際、当時のチラシには次のように書かれています。 【ヒロポンの当時のチラシ】 「戦時活動への拍車」 「疲労の防止と快復に!」 特攻隊員に覚醒剤チョコを食べさせていたのか、梅田さんが描いた絵を見てもらいました。 (北多摩薬剤師会 平井有会長) 「特攻隊に使われた可能性はありますよね。お菓子と一緒に出した可能性はあるかもしれないけどね。記録はまず残っていないでしょう」 ここでも記録は見つかりませんでした。ただ当時、軍が覚醒剤を使用していたという記録は残っていたことがわかりました。軍と覚醒剤のつながりが浮かび上がってきたのです。 特攻隊員に覚醒剤を注射していた元軍医『本当にかわいそうで仕方ない』 その答えを知る人が新潟県にいました。蒲原宏さん(98)は、1945年、多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県にある海軍の航空基地で軍医をしていました。そこで「出撃前の特攻隊員に覚醒剤を注射していた」と証言します。 (蒲原宏さん) 「僕は初めはヒロポンとは知らなかったわけですよ。黒いケースに10本アンプルが入っていて、説明書にはただ『筋肉内注射しろ』と。『出発前にやれ』という命令だけでよくわからなかった」 上官の命令で約300人の特攻隊員に覚醒剤とは知らずに注射をしていたといいます。その目的は… (蒲原宏さん) 「眠らないためということが主目的でしたね。戦闘力というか興奮させるといいますかね、そういうものを増進させることが目的だったようですね」 鹿児島の基地から戦場の沖縄までは戦闘機で3時間ほどの距離があり、夜間の出撃で眠ってしまわないようにする狙いがあったといいます。 注射された特攻隊員の多くは平静を保ったまま出撃しましたが、中には… (蒲原宏さん) 「真ん中あたりに指揮官が乗るわけですよ。それが日本刀を振り回して滑走路を飛んで行くのを見たことがあったが、今考えると(覚醒剤で)興奮したのかなと思うけど、わからないですね」 特攻隊員に贈った覚醒剤チョコの存在も知っているのでしょうか。梅田さんが書いた絵を見てもらいました。 (蒲原宏さん) 「これは見たことがありませんね。(私のもとには)実際来ていませんね。陸軍はチョコレートに(覚醒剤を)入れたなんてことを言っていたけど、海軍はもっぱら注射だけでしたね」 特攻隊員に使われた記録はありませんでしたが、陸軍では覚醒剤チョコを作っていたというのです。 一方で蒲原さんは今も特攻隊員に注射したことを後悔しています。 (蒲原宏さん) 「本当にね、ヒロポンを打たれて死んだ人に対しては申し訳ないと思いますよ。内心忸怩たるものはありますね。今でも時々夢を見ますよ。どんな気持ちだったか、本当にかわいそうで仕方ないですよ」 悲劇の背後に隠された“不都合な真実” 特攻という悲劇の背後に隠された覚醒剤。軍と覚醒剤について長年研究をしている相可文代さんは、覚醒剤チョコの記録がほとんど残っていない理由を次のように指摘します。 (相可文代さん) 「戦後、覚醒剤のヒロポン禍と言われる、いわば幅広く中毒者が出た事件があったんですよね。(特攻で)純粋な気持ちで亡くなっていった若者たちが、実は覚醒剤を摂取して出撃していたんだなんて、そんなことは絶対に認めたくないと、当然遺族はそう思いますよね。周りもそれには触れない。軍の上層部もそんなものを与えていたとは知られたくない。不都合な真実だと思いますね」 『戦争というのは自由を失う』 今は自由な生活を楽しむ梅田和子さん。覚醒剤チョコについて「当時は反対できる状況になかった」といいます。 (梅田和子さん) 「何をしてもあのころは(戦争に)協力しない生き方というのは見つけられないですね。戦争というのは自由を失うんです。一つの方向にみんなそっちを向かないといけないという、この怖さがありますね。一人一人みんな大事な命を持っていることをもっと認識されないと」 軍の無謀な作戦により尊い命が犠牲となった特攻。その裏にある“不都合な真実”も語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。 (2022年8月16日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」内『特集』より) (2022/8/17 MBSニュース) まず、記事のタイトルが不適切ですね。 複数の人間が証言しているかのようなタイトルになっていますが、 覚醒剤チョコなるものを証言しているのは 食料工場で働いていたと自称している梅原和子という女性だけです。 そしてそれを軍が隠したい不都合な真実だと拡散活動を昨年から行っているのが 相可文代という日教組の活動家です。 相可文代氏は自由社、育鵬社の歴史教科書を採用させない運動や 従軍慰安婦強制連行は事実ではないと政府が公式に認めた事で 教科書の関連の記述内容が修正されそうになったため、 教科書の慰安婦等の虚偽記述を元に戻させないようにする活動などをしている方です。 共同通信や地方新聞などでも この相可文代の 「チョコ包むの見たと証言している人がいる。」 というのを根拠に、 覚醒剤チョコの話を配信しているようです。 マスゴミとしては相可文代という日教組のバリバリの活動家が広めようとしている 「特攻隊を貶める創作ストーリー」 を事実として定着させようという魂胆のように見えて仕方がありません。 ブログ主は創作ストーリーと書きましたが、 それはこの話がでっち上げである可能性が極めて高いためです。 この日教組の活動家である相可文代氏が根拠としている 梅原和子という方の証言は今回とりあげたMBSの記事がわかりやすいですが、 まずチョコレートを取り巻く日本の当時の状況について。 「チョコレートの世界史(中公新書)」の第3版の 「戦地のチョコレート」という項によれば 1940年12月を最後にカカオ豆輸入はストップ。 軍ルートでごく限られた用途にだけカカオが配給されるのみとなり、 カカオバターは医療用などに使われたとあります。 そして、1950年までの10年間、日本はカカオの輸入が止まっていたとあります。 また、日本チョコレート・ココア協会のHPに 日本のチョコレート生産の歴史が おおまかに書かれています。 昭和12年にはカカオの輸入制限がかかり、 昭和15年には軍需用以外のチョコレート製造が中止、 カカオの輸入が途絶したことにより 昭和16年から代用品を材料に使ったチョコの研究がされていたものの 量産などには至らなかったと書いてあり、 日本でのチョコレート生産の再開は昭和26年と書かれています。 次にヒロポンについてです。 当時はヒロポンは栄養剤みたいな扱いでした。 経口接種では効果が大きく下がりますから注射です。 坂井三郎も当時は注射されていた事に触れています。 ヒロポンが覚醒剤として一般の流通などが禁止されたのは昭和26年です。 たとえば昭和22年2月6日と同7日の東京新聞に掲載された坂口安吾のエッセイから抜粋しますが、 ----- 私の街が焼野原になった夜、焼い弾が落ちはじめたとき、このヒロポンを飲んだ。どうにも睡くて仕方がないからで、戦争中は私は実にねむかった。そのヒロポンのせいだか、私は妙に怖くなかった。頭上で焼い弾がガラ/\やるのを軒の下からながめて、四方の火がだん/\迫ってくるのを変な孤独感で待ちかまえていたのである。 ホープの編集記者の新美という人が、元来心理学を専攻した人で、戦争中、航空隊に属してヒロポンの心理反応を取り扱い、特攻隊にヒロポンを用いるつもりであったという、多少は度胸をつけること私も実験ずみだが、この新美氏のヒロポンの知識は専門家だから大したもので、私は二時間にわたってヒロポンの講話を承ったが、あんまり専門的な話だから、感心しながら、みんな忘れてしまった。ノートをとっておけばよかった。 そのとき、ヒロポンは元来モヒ中毒の薬として発明されたものだということを知った。そのうちに覚せい剤としての効能などが分ってきたのだそうである。船酔いなどにも良いそうだ。とにかく、きく。これを飲めば十時間は必ず眠れぬ。その代り、心臓がドキ/\し、汗がでる、手がふるえる、色々とにぎやかな副産物があって、病的だが、仕事のためには確かによいから、自然、濫用してしまう。 織田作之助がヒロポンを濫用していた。彼は毎日ヒロポンの注射をして仕事にかゝるのだが、毎日というのは、よろしくない。 私は仕事の日と、遊ぶ日を別にしており、仕事の日は仕事だけ、遊ぶ日は遊ぶだけ、というやり方だからヒロポンは毎日用いてはいない、もっとも、ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。 ----- こんな感じでヒロポンが使われていたような時代です。 ですから今回取り上げたMBSの記事にあるように ヒロポンがとても後ろめたいものなので軍としては隠したかった不都合な真実だ。 みたいな話は極めて信憑性が低いと言えます。 というか戦後にヒロポンという覚醒剤が極めてよろしくないという価値観になってから 戦中のことに当てはめて考えたお話なのではないかと考えます。 「食べた瞬間にカーッっときました」 なんていう証言をされていますが、 この表現もこの梅田和子という方が自分の想像で考えたものではないかと疑わざるをえません。 ヒロポン、成分で言えばメタンフェタミンは他の覚醒剤よりも とりわけその効果の持続時間が長いのが特徴です。 経口接種では15~30分ほどで覚醒作用が表れはじめ、 それが長い時間続くようです。 ヒロポンを使っていた坂口安吾のエッセイでも 覚醒作用の持続時間の長さがうかがえます。 梅田和子という方は経口接種で「食べた瞬間カーッっと」なるようです。 唐辛子が入っていたのなら納得の表現ではありますけど……。 さて、この件は昨年の8月15日に共同通信が記事にして配信しています。 その記事が以下。 【これだけあった〝特攻隊員に覚醒剤〟外道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡】 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に〝軍神〟とあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に満ちないと敵艦には突入できなかった」と相可さん。「実証」にこだわった研究を、冊子の記述と相可さんの言葉からたどる。引用は原文のままとした。(共同通信=真下周) ▽「一口食べてカッと体が熱くなった」 2016年9月、相可さんは平和学習会で戦争体験者から思いがけない話を聞いた。「兵隊さんに送るチョコを包む仕事と言われ、プレハブ工場に連れて行かれました」「チョコを一口食べ、カッと体が熱くなったのを覚えています」 大阪府高槻市在住の梅田和子さん(90)は、1945年の春、茨木高等女学校(現在の府立春日丘高校)の学生だった。父は弁護士で、大阪市内の裕福な家に生まれ育った。空襲がひどくなり、祖母と高槻に疎開していた。 隣の同府茨木市にあったゴルフ場は陸軍の食糧補給機関になっていた。備蓄用の食料品が保管され、ここから戦地に運ばれていった。市内の山間部に海軍関連の倉庫として建設された地下トンネルにも、特攻隊が出撃前に食べるための覚醒剤入りのチョコ(チューブ型)が保管されていたようだ。 (2021/8/15 共同通信) 2021年の記事での梅田和子氏の証言とされる内容。 ・「兵隊さんに送るチョコを包む仕事と言われ、プレハブ工場に連れて行かれました」 ・「チョコを一口食べ、カッと体が熱くなったのを覚えています」 今回取り上げたMBSの記事にある梅田和子氏の証言 ・「疎開先近くの茨木高等女学校に転校した。学校は兵隊の食料工場になっていて、チョコレートを紙に包む作業を命じられた」 ・「チョコを食べた瞬間カーッときた。クラッとした」 過去のものだとプレハブ工場に連れて行かれて働かされた事になっていて 今年のバージョンは 「疎開先の学校が食料工場になっていた」 という内容に調整されたようです。 そもそも当時はヒロポンは栄養剤みたいな扱いで 兵士に注射されていたどころか、 民間人ですら利用していたわけです。 そして戦後数年間ヒロポンが当たり前に使われていたほどです。 ヒロポンに対してそんな認識の中で 極悪な覚醒剤だからチョコに隠して盛っていたかのようなストーリーは 戦後の価値観を無理矢理ねじ込んだようにしか見えず、整合性が取れないように思います。 またMBSの記事にある軍医をしていたとする蒲原宏という方の 「ヒロポンと知らされずに注射させられていた」 という説明も後から考えたように思えて仕方がありません。 当時は合法で栄養剤みたいに当たり前に使われていたんです。 わざわざ隠す理由がありません。 仮に、 「ヒロポンは覚醒剤でものすごく悪い薬だから隠して使っていたに違いない」 などと、戦後の後付けの知識でストーリーを考えたとすれば この説明も納得いくものではありますが。 当時材料も無く生産が止まっていたはずのチョコレートをわざわざ生産して そのチョコレートに隠すように仕込んで特攻兵が特攻に出る直前に食べさせていた。 ……当時合法で隠す必要がなかったものなのに なんでわざわざこそこそしなきゃいけないんですか? やはりこのようなストーリーにブログ主は全く説得力を感じません。 戦後の価値観で戦中の話を創作したと考えないと整合性が取れません。 「日本軍は極悪非道な組織で兵士達に覚醒剤を投与してハイにさせて非人間的なことをやらせていた!」 「特攻兵は薬でおかしくなっていたから特攻できたんだ」 と言ったあたりの話で貶めようと 昨年から始められたキャンペーンのように見えて仕方がありません。 K国の自称慰安婦の方々の証言はなぜか証言のたびに内容が変わっていたり、 過去の証言の矛盾に合わせて内容がアップデートされていたりしましたが、 どうも今回の話も唯一証言している方の主張がアップデートされているようですし。 そしてMBSの記事にある日教組の活動家である相可文代氏の説明が 「後付けの中途半端な知識で考えついたストーリー」 感をさらに強化しています ----- (相可文代さん) 「戦後、覚醒剤のヒロポン禍と言われる、いわば幅広く中毒者が出た事件があったんですよね。(特攻で)純粋な気持ちで亡くなっていった若者たちが、実は覚醒剤を摂取して出撃していたんだなんて、そんなことは絶対に認めたくないと、当然遺族はそう思いますよね。周りもそれには触れない。軍の上層部もそんなものを与えていたとは知られたくない。不都合な真実だと思いますね」 ----- 戦後のヒロポン禍なんてものが起きた時点には 軍はとっくに無くなっているわけで、 さも軍が不都合な真実だから隠蔽していたかのように思わせたいような言い回しは 輪を掛けて説得力を失わせているように思います。 繰り返しになりますが当時ヒロポンは合法で 使う事が極めて後ろめたいものだから隠して使わなければいけないものではなく、 普通に使われていたのです。 ですので 「わざわざチョコに隠して覚醒剤であるヒロポンを盛っていた」 というストーリーは出だしからすでに破綻しているのです。 と、ここまで書いたところで たしかに戦中軍需用にわずかにチョコレートが作られていた話はあるので ついでにそれについて考察してみましょう。 参考になる記事が2020年の西日本新聞の記事にあります。 【睡魔防止の軍用チョコ】 (2020/2/13 上別府保慶 西日本新聞) 記事から一部抜粋します。 ----- 洋行経験があり、無謀な戦争に反発した永井荷風は日記「断腸亭日乗」の1942年2月2日に「甘きものくれる人ほどありがたきはなし」と書いた。配給生活の中、親しい人々がようかんやココアをくれたのを喜び、涙の歌も添えた。 「あじき(あぢき)なき浮世の風の吹く宵は人のなさけにしぼる袖かな」 日本の軍部はこの1年余り前にチョコレート原料のカカオ豆の輸入がストップすると、指定した業者にだけカカオ豆を配給した。 航空機の搭乗員は長距離を飛んだ帰り道に睡魔に襲われる。海軍はその眠気対策として、カフェインを混ぜたチョコレート「居眠り防止食」を開発させた。また、室温が40度にも達する潜水艦の乗組員のために、特殊な機械で圧縮して作る「溶けないチョコレート」も考案された。 やがて占領地のインドネシア産のカカオ豆が使えるようになると、陸海軍は森永製菓や明治製菓に軍用チョコレートを現地で生産させた。それは海路を絶たれて内地へは届かなかった。原料にブドウ糖やユリ根、チューリップの球根などを使った代用品が試みられたもののやはり味は劣った。 ----- 航空機の搭乗員の眠気防止のためにカフェインを混ぜたチョコレートを作らせた。 たしかにこれなら納得です。 しかしながら戦況が悪化すると かろうじてインドネシアで生産していたチョコも日本に入ってこなくなったと。 日本チョコレート・ココア協会の資料などから考えても 代替品でチョコを作ってみたもののそれは味に劣るなどしていて量産化されず終わった。 そういう事になるでしょう。 梅田和子氏の証言だと氏が生産に関わっていた「覚醒剤チョコ」とやらは 昭和20年の春に作られていた事になります。 代替チョコの可能性はありますが、 代替チョコは量産化されていなかった事がわかっています。 ヒロポンの注射で行っていたものをわざわざ 「チョコに隠して盛っていた」 という相可文代氏が広げようとしているストーリーは チョコの生産という文脈からも信憑性が低いと考えるべきでしょう。 長くなってしまいましたが、簡単にまとめます。 ----- ・戦中でヒロポンを人に言えない悪い薬だったかのように扱いチョコに隠して盛っていたかのようなストーリーは 日教組の活動家である相可文代氏が梅田和子氏の証言をソースとして2021年から広める活動を開始したもの。 ・当時ヒロポンは当たり前に流通、使用されており、一般流通が禁止されたのは昭和26年 ・ヒロポンを人に言えない悪い薬のように扱うのは戦後の認識 ・梅田和子氏の証言内容がアップデートされている。 (兵隊にプレハブ工場へ連れて行かれた → 疎開先の学校が食料工場になっていた) ・戦中は国内でチョコレートが生産できなくなり、代替チョコが試されたが量産、流通化はされなかった。 ・梅田和子氏の証言でも彼女の父がヒロポンでも入っているんだろうなと言ったというのがヒロポン混入疑惑の根拠 ・梅田和子氏のヒロポンチョコを食べた感想が本当のヒロポンの経口服用の症状とは考えにくい ・ヒロポンチョコが作られていたなんて話は記録等一切残っていない。 (軍の食料工場だったとすれば命令書や在庫表の一つすらも残っていないとは考えにくい) ----- どうにも日教組の活動家である相可文代氏が 「日本軍は極悪非道な組織で兵士達に隠して覚醒剤を投与してハイにさせて非人間的なことをやらせていた!」 というような話を広げようという目的で梅田和子氏の証言を使っているように思います。 梅田和子氏の証言が 承認欲求を満たしたくてついつい話を盛ってしまったのか、 そうではなく本当にそのような記憶だったのか、 そこは断定はできませんが、 極めて信憑性の低いものであるとブログ主は考えます。 --------- ↓良ければ応援クリックよろしくお願いします。↓
by Ttensan
| 2022-08-18 06:00
| 政治
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